7 水曜会
第一次世界大戦に敗れたドイツについて「カイゼル(皇帝)は消えたが、ゼネラル(将軍)は残った」との評がある。ワイマール憲法下でもユンカー層出身者を主とする将軍達の力は確実に温存されていた。25年のヒンデンブルグ大統領の出現は結果的にはヒットラーの登場を準備したものだった。世界大恐慌はドイツに左右両翼を台頭させた。「国会議事堂の火炎」の中からナチス独裁政権が猛々しく立ち現われる。
ユンカーの出身ではなかったベックが陸軍参謀総長の要職に就任したのは、35年ヒットラーの第三帝国の下であった。38年ヒットラー総統は、自身の故郷オーストリアを併合し、次いでドイツ系住民の多いチェコスロバキアのズデーテンの併合を企図した。ミユンヘン会議はこの事態へのイギリス、フランス等の対応であったが、ソ連の影響力拡大を阻止するためナチスの利用を図った「宥和政策」により併合は黙認された。この併合に反対したベック将軍は参謀総長を罷免された。
1863年1月、プロイセンの文部大臣ベートマンの私邸に10余人の学者が集った。メンバーの数が16人以下とされた賢人会議は1944年7月26日の水曜日の1056回まで続いた。開催日に因み「水曜会」とよばれ、自然科学、文化科学、芸術、社会問題、戦争学等々幅広い分野の発表、報告、質疑、討論が極めて高い学問的水準を維持しながら約80年間続けられた。今日的話題は原則としては避けられていたがヒットラーの「革命」以後、しばしば時事問題をテーマにせざるを得なくなった。老齢、重病、死去の際に入れ替わるメンバーは全員の賛同を必要としたから、相対立する見解の表明は皆無かと予想されそうであるが事実はこれに相違する。ただし批判、論争は深い知性のもつ抑制力によって静穏に進行した。
ベック将軍が水曜会に参加したのは39年、直後にヨーロッパにおける第2次世界大戦が始まった。当時の「水曜会」メンバーをみると
1 地理学者 2 文学史家 3 神学者 4 古代史家 5 医学・人類学者 6 植物学者
7 政治家 8 歴史学者 9 政治学者 10 外科医 11 哲学・教育学者 12 美術史家
13 古典学者 14 物理学者 15 外交官 等であり大多数がベルリン大学の教壇に立った経験を持っていた。
この中から、対ナチス抵抗運動が起こる。政権に忠実な者も決して少なくはなかったし全く超然としている人も2、3には止まらなかった。抵抗運動派の中心がベック、忠誠派の中核は医学・人類学者フィッシアー、ゲーテ学者ベーターゼン、超然派の代表はかの原子物理学者ハイゼンベルグであった。
1944年7月20日、ベック等が慎重、極秘裡に計画し実行に移したヒットラー暗殺の試みは僅かの手違いで失敗におわった。ベック将軍は自殺し、他の数名も処刑され、1・2が亡命に成功した。
ベルリンがソ連軍に包囲され、ヒットラーが自殺するまでの時間は残り10カ月であった。第三帝国は崩壊したが、水曜会は44年7月26日、僅か数名の参集をもって終焉し、以後二度と開催されることはなかった。
要約が過ぎるベック父子についての紹介は、言うまでもなくその圧倒的部分を中澤の「ベック将軍研究」に拠っている。
第15集の完成は2000年1月21日である。88年に第1・2集、89年に第3・4集、90年第5・6集、91年7・8・9集。92年第10集、93年第11・12集そして1年とんで95年に第13集、3年間をおいて99年に第14集を自作出版し、第15集完成の約1ケ月後、2月22日 83歳の中澤は「天に召された」。
第13集が(上)のみであったり、第15集は(中)であったりすることからも中澤は仕事半ばにして倒れた−「神」はお召しになるのが早すぎたのである。
文頭、あるいは文中に挙げたもの以外の中澤の著作、訳書は略以下の通りである。
「近代溶鉱法の誕生」 |
1954 |
八幡製鉄 |
「幕末の思想家」 |
1966 |
筑摩書房 |
「鉄のメルヘン」 |
1975 |
アグネ |
「栄光のいばらの道」 |
1987 |
アグネ |
「ヨーロッパの世紀」 |
1987 |
東洋経済新報社 |
「ベッセマー自叙伝」共訳 |
1999 |
日鉄技術情報センター |
「青山芳正山紀行」1〜4 |
1989〜91 |
自家版 |
「丹沢通信」1〜5 |
1996〜99 |
〃 |
「製鉄史研究」 |
1997 |
〃 |
「鉄鋼技術の過去・現在・未来」 |
1991 |
〃 |
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