4 明にして朗、行動派インテリ
 大柄ではないが頑健な体躯をもつ矢崎は、常識的、白晰なインテリゲンチヤーとはかなり異なる側面を持っていた。
 幾つかの大学で哲学・美学・和洋の美術史等の講義を担当する教授・研究者であり、学術書の著者、監修者、そして出版社の顧問格でもあった。最後の時を除いて彼は、常にきわめて多忙であった。生家が裕福であったことが幸いであったか否かは速断できない―家計を無視したかと思える日常を友人・教え子達の声から窺うことができる。
 国学院、法政大学、九州帝国大学、京城帝国大学、東北大学、東京大学等での講義またはゼミの終わったあと学生達とコーヒー店に向かう矢崎の姿を見かけるのはしばしばだった。紫煙をくゆらせ、やや大声で談笑する矢崎から「甲州人」気質が感じ取れたかもしれない。

 矢崎は30歳をすぎて結婚した。九州大学在任中である。物理学者桑木※雄の三女亮子。桑木厳翼は※雄の兄である。
 媒酌の労をとったのは宗教学の佐野勝也教授。亮子の弟の務は、九州帝国大学哲学科に在学中、後に共立女子大学、中央大学の哲学・倫理学教授となる。

 矢崎は四女二男に恵まれた。美智子、芙美子、斐子、紀子、昭盛、和盛であったが紀子は夭折した。矢崎が後に「少年美術館」の編集に大きな意欲を見せた動機の一端は「わが子等への父の贈り物」としようとの配慮があったと思える。
 同僚、教え子達が矢崎の33回忌に「回想 矢崎美盛」なる追悼文集を編んだ。各文の随所に矢崎の深い学識への敬慕とともに、率直快活、開放的、面倒見のよい人間性の魅力が語られている。
 東京大学での前任者児島喜久雄は、「新任予定の矢崎とは如何なる人物か」との三輪福松(1937年 東大卒、元清春白樺美術館長)の問いに「…要するに、精神構造、また芸術の客観的構造の追求者である」続けて「学生をやさしく指導するので非常に慕われ…ある時学生達と酒を飲み、酩酊して福岡の川に落ちてしまった。学生にとっては親しみやすく、僕よりずっとよいと思うよ」と答えた 。
 東北大学で同僚となった河野与一は「カントやヘーゲルについてわからぬことは矢崎にたずねるとよい」と学生達に話した。正に「事柄の本質に深く徹した頭脳のみが能く為し得るところである。」
 「話題豊富、多種多彩、光彩陸離たる講義やゼミ」に魅せられた東大生松下憲一は父親が日下部生まれであることに乗じ矢崎にとことん縋ったと述懐する。中々就職先の決まらない彼に矢崎は根津美術館を紹介する。もっとも彼は2年後に飛び出しフジテレビのディレクターになり「オレたちひょうきん族」中に「ひょうきん懺悔室」なる設定を行い、タレントがNGやミスをすると、太目のキリストの前に跪き懺悔させる。それがキリストの意に副わないとバッテン、バケツの水を頭から浴びせられるという人気番組の制作中、彼は矢崎から受けた譬えようもようもない「楽しさ」とキリスト(メシア)ともまごう温顔が常に脳裏に浮かんでいたと言う。

 「平常の講義の際も終始、笑顔を絶やさず、それでいてぐいぐい人を惹きつける不思議な魅力」「先生がお訪ね下さって畳の上であぐらをかかれると、すぐにお膝に抱っこされていたのが学齢前の未娘でした」
 「煙草をずいぶんたしなまれて、酒にも強く、酒席では談論風発止まるところがなかった。」「飲みっぷりは豪快、煙草も立てつづけ…」「酒量を知る機会はなかったが、コーヒーのことは強い印象で残っている。柳(宗玄)さん達と、決まって赤門前のタムラへと」「コーヒーがお好きで一日何杯飲まれるのか誰も知らなかった」煙草とアルコール、それに無類のコーヒー好きであり、中国出張中も「図書館に着くと必ず未市大街にコーヒーを飲みに行かれた」。矢崎が胃の悪性腫瘍に冒される大きな要因が日々積み重ねられていった。

[ # 採録者注:※は今のJIS漢字では表せない文字で、正しくは桑木あや雄の「あや」の漢字です。 ]