桑原浜子
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アトリエで
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(写真提供 小学館サライ、馬場隆氏撮影
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私は1912年(大正元年)11月17日生まれです 。
1930年、山梨県立甲府高等女学校を卒業した私は、受持ちの先生のおすすめで、矢崎好幸先生の研究所に行きました。矢崎先生は、当時の山梨男子師範学校(現・山梨大学)の図工の先生でした。先生は、以前からいろいろな手工芸品の技術を発明されておられました。
私は先生の研究所で、ちょうどその頃先生が発明された「卵殻モザイク」を教わることになったのです。それが私の卵殻モザイクとの出会いであり、その後、今日までの私の人生を常に支えてくれるものとなったのでした。
卵殻モザイクとは、昔からの日本の伝統工芸の一つとしてつづいてきたものです。それは、漆に卵の殻を塗り込め、それを磨きだし、卵の殻の白で図案を出す立派な工芸でした。正倉院の御物の一部にも使われており、短刀の鞘や文鎮などにも使われ、残されている技術です。しかし、工程がむずかしく、専門的なものであるため、素人にはなかなかできないものでした。
それが矢崎先生の発明により、誰にでもできる着色卵殻の技術が創られたことにより、絵画的にも自在に表現できるようになりました。 卵殻モザイクの創始者・矢崎好幸先生は、山梨県東山梨に生まれました。 そして、先に申しましたように山梨男子師範学校に在職しておられたのですが、卵殻モザイク以前には「クレオン染め」とか「カゼイン工芸」といった新しい技術の発明をされていました。非常に意欲溢れた創造的な先生であったのです。 「卵殻……」の次には「セメント工芸」を発明され、これを機に東京美術学校 (現・東京芸術大学)に行かれることとなりました。そこでは「セメント工芸教室」の主任講師となられました。昭和25年、亡くなられるまでここで研究のお仕事をされました。
矢崎先生は『卵殻モザイクとカゼックス工芸』という著書(48頁参照)[注: 「48頁」は本における参照先であり、このサイトにおいては次項「【解説 】『卵殻モザイクとカゼックス工芸』(矢崎好幸/著)について」を参照]を、昭和5年に出されています。その本の序文でお二人の先生が、矢崎先生について書かれております。その一人、山本鼎先生(日本農民美術研究所所長)は次のように記しておられます。
「多知多芸の矢崎君は、ついに卵殻モザイクを成功された。製作法に成功されたのみならず、これを小・中学校の図工・手工科に利用せしむべく、指導者としての多年の経験を傾けて布置整然たるプランのもとに懇切を極めた指導法を記述された。凡そ卵殻モザイクに関してあますところがないものであらう」と。
こうして卵殻モザイクの将来に対する山本先生の希望を述べられているのです。
板倉賛治先生(東京高等師範学校教授)は、こう書いておられます。
「私は、手工芸の実習方面で無味乾燥で単なる物品製作に偏したものを改善して潤いある芸術的要素の多分に含まれたものにするのは、特に急を要するものであると思ふ。氏はこの現状を黙視することが出来なくて、遂に、それを改善し時勢に順応するものにしようと思い立ち、非常な熱意と興味を以て研究された。優秀な頭脳と、熱意、才能の充実した人でなければ出来ないものである。 著者はその完全の条件を備えた稀に見る人である」と。
言われているとおり、矢崎先生は稀有の天才的な方でした。
私は先生のもとで、卵殻モザイクにすっかり熱中しました。一生懸命に、そして楽しくやりました。しかし、その過程で、絵やその他いろいろのことについて勉強しなくては駄目だと思い、先生にご相談したところ、帝国美術工芸学校を紹介して下さり、そこに入れていただきました。この学校の校長、吉野正孝先生は卵殻モザイクにたいへん興味を持たれ、いろいろ親切にご指導下さいました。また、ことある毎に私を講師にして「卵殻モザイク」の講習会を開いて普及して下さいました。山梨に帰りましてからは、在住の工芸家の方々と「山梨造形会」をつくり、山梨美術協会に所属しておりました。
戦後、1950年代には、卵殻モザイク研究会を発足させ、県下の小中学校の図工の教材として用いられたこともありました。同じ頃、日本手工芸協会夏期大学(於・東京・図工の先生を対象とした講習会)に、講師として参加もいたしました。
1977年からは、女流三人展、女流五人展、女流九人展、また、西美展に参加し、近年は研究会展を毎年ひらいております。1994年3月から6月にかけて、八ヶ岳の麓・小淵沢のフィリア美術館での個展は、私にとって、もっとも充実したものだったと思っております。
誕生してから半世紀と少々の歴史をもつ卵殻モザイクですが、さいわい孫娘が後継者として来てくれましたので、研究会の方々と力を合わせ、日本はもとより、世界の舞台にも飛び出してゆける卵殻モザイクに育っていってくれればと思っております。
私は先に申しました通り大正元年生れです。この年代は、戦前、戦中、戦後をつぶさに見てきた年代でして、戦争がいかに人間を不幸にし、美しいものを破壊し、自然を破壊し、人間を悪魔にまでしてしまうものかということを見て きました。戦後、各方面で戦争の実態が明らかにされ、私は、戦争がいかにして起こされるかを知りました。 私は自然をこよなく愛しています。そして、美しいものへのあこがれなしに生きていくことはできません。戦争を恐れ、平和を愛する仲間たちとともに、 反戦運動に参加しております。これがわたしの卵殻モザイクをつづけている原動力になっているのではないでしょうか。
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